遠慮で悪い方に寄ってしまうのは信頼関係がないと定義できる
ソフトウェアエンジニアがプロダクトにオーナーシップを持てないアンチパターン、構造に以下の文章があった。
たいへんにややこしいのが、とくに内製の場合などで「よかれと思って」越境がむずかしくなっている場合があることだ。企画者は「しっかり仕様が固まった状態でエンジニアに渡さないと、エンジニアさんに余計な仕事させちゃうな」と思って、ガチガチにHowまで固めた状態で持ってきてくれる。これは見ようによっては善意だ。一方エンジニアはエンジニアで「これだけ考えてくれたのをひっくり返すのは悪いな」と思って越境しない。これも見ようによっては善意だ。そういう場合もある。ただ、こういう状態にあるときは思い出して欲しい、企画者のお客さんはエンジニアではなくエンドユーザーだ。エンジニアのお客さんも、企画者ではなくてエンドユーザーだ。そこを思い出したとき、これは「善意」ではなくて「余計な遠慮」であると思えるはずだ。そうなったら越境は簡単だ。そういう視点から見ると、善意に見えていたものはもしかしたら「信頼関係のなさ」に見えてくるかもしれない。「とりあえず相談できる」という信頼関係がないものを、「善意」で包んでいないだろうか?
これを読んでいて思い出したのだが、はてなでもフェンリルでも、実際にそういうことは度々起きていた。例えばデザインが上がってきたので「なるべくデザイナの出してきたそのまま再現するように」実装するとか、言い渡された仕様について「コストはかかるけどがんばる」とか。
それをなんと言えばいいのか分からなかったのだけど、この記事では「信頼関係がない」と言い切ってくれていて非常に良かった。「善意」という表現では改善しなくてもいいように思えてしまうが、そうではなく「信頼関係がない」なら明確に良くない状態だと定義される。