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AIを道具にするのはいいが学習用途に使うのは意味がない

AIエージェントをうまく使うことは今後必須になっていくのだろう。うまく動く限りにおいて、人間は機械に勝てないので、プログラミングの楽しさは薄れてしまうが仕方がない。そういったものは趣味でやればいい。

しかし、何かを学ぶとき、分からないことにAIを使って「分かった気になる」のは良くないと思う。効果的な学習方法でも挙げているが、人間の脳は情報を出し入れすることによって学んでいくものなので、試行錯誤した結果、理解を深めるといった仕草が必要なのではないか。AIエージェントでできることが増えても何も学んでいないでも少し書いたけれど、AIエージェントの出力を読んで分かった気になるのは流暢性の錯覚と呼ばれている症状に近い。この話を端的に表現した文章がAI native時代の袋小路 ― 見立てる力はどこから来るのかの記事にあった。

しかしそこで下されている「判断」は判断ではない。AIへの追認にすぎない。そして、追認している本人すら、自分が追認しているだけだということに気づかない。なぜなら、追認と判断を見分ける身体側の物差しを持っていないからだ。

脳の特性として、試行錯誤があると記憶しやすいし、手を動かしているとき当初の想定とは異なるよりよい構造に気づくことがある。この具体例はコードを書いていると良い方法を思いつく事例で過去の事例を記録していく。

人間の脳は知識を創発するためにまず記憶が必要という話もあり、これが事実なら情報があるだけでは発揮されることはない。記事をスクラップしてAIツールによってまとめるだけでは記憶できないのでとならない。そうではなく、LLMを用いた最近の学習についてで挙げられているように、「手を動かす」「自分の言葉でアウトプットする」のように補助輪として使うのが良いのだろうと思う。そうしておくと、OpenTelemetryの計装していたらplugの解決策が見つかった事例のように、何かやっているときに学んだことが別のことと繋がって、一気に理解が進む体験ができる。

2025年時点では、伊藤直也氏もそういう位置関係でAIと関わっているようだった。